日時:7月15日 (土) 15:00~17:00
場所:明治大学リバティタワー14階 1145教室 http://www.meiji.ac.jp/koho/campus_guide/suruga/access.html
テーマ:「共生保障ー<支え合い>の戦略」
報告者:宮本太郎さん(中央大学教授)
共催:明治大学日欧社会的企業比較研究センター
感想・コメント (東京大学大学院 博士後期課程 金宝藍)
第94回社会的企業研究会(20170715@明治大学)では「『共生保障』社会的企業と準市場の可能性」をテーマに、宮本太郎(中央大学)先生の報告から、「共生保障」の意味、背景、課題について深められた。 まず、藤井会長からの本の研究会の趣旨説明において、現在、支える側と支えられる側が分離されていることを指摘され、今の縦割りの状況の中で、どのように「支えあい」の関係(支えあいの経済)を再建できるのか、その対案として「共生保障」が考えられるのではないかということから、宮本先生に直接お話をお聞きする場を設けたとのことだった。特に、共生丸投げ論と言われるように、共生を地域に全て任せてしまうのではなく、地域型居住やユニバーサル就労など、社会的連帯経済とも深く関わる現場の実践をどのように支援し、政策的にもバックアップしていくのかについて議論できることが期待されると述べた。 宮本先生のお話は、「共生なのか vs. 保障なのか」という基本的な論点を提示することから始まった。つまり、社会的連帯や地域の支えあいの方向にいくのか、公的保障の方向にいくのか、ということだが、こういう二者択一のような議論の中で、宮本先生は、「支え合い」を地域に任せたまま、公的責任を放棄するにはいかないので、「『支えあい』を『支えあう』」、すなわち、「支えあい」が可能となる条件を保障することが大事だと強調し、その環境をつくることが「共生保障」であるという。共生への依存ではなく、共生を公的に支援していくこと、つまり、共生の場をつくることと、そこに人々をつなぐ包括的なサービス、すなわち、「補完型所得保障」を連携させる必要性を強調し、その際、共生の場の形成と支援をつなぐ主体として重要な役割を果たすのが「社会的企業」であり、その本来の力が発揮できる準市場のかたちを公的に支援することが求められているということであった。講演に沿って述べるならば、次のとおりである。
「共生保障」が唱えられる背景として、今何が起きているのかについて、日本社会が直面している状況、すなわち、①生産人口減少・高齢化による肩車社会化(ある種の「重量挙げ」化)、➁出生率低下と若年層流出による漏斗化、③三つの貧困(高齢世代・非正規や単身の現役世代・子どもの貧困の三世代化と連鎖)による困窮化、の三点が指摘された。これから日本社会が直面している状況から浮かび上がるものは、「連帯」「希望」「運動」ではなく、「孤立」「諦観」「沈黙」が続いているのであって、「孤立」がますます困窮を強める結果を招いているのが現実である。いったいこうした状況に制度はなぜ対応しないのか、日本は、選別主義ですらなかったのではないか、という疑問が起きる。今の貧困は、以前の貧困とは異なる。高齢化のことで、毎年、支給年金は縮小され、認知症、介護、非正規雇用、貧困、生活保護など・・・複数の問題が複雑に重なっているが、こうした絡み合った困難の内実において、共通性があまり見えてこない。その結果行政の窓口でも、それぞれ異なった担当となっている。一人一人の困難が世代の困難として重層化しているにもかかわらず、困難を分別類型化し、個々人の属性に基づいて支援策が講じられていることが問題である。
日本は、もともと社会保障や福祉支出について、困窮者には支援する残余主義、選別主義として考えた傾向がある。だからと言って、困窮層へ向けられた現金給付が多いわけではない。イギリスの場合、社会支出の中、3割が困窮層へ支給されるのに対して、日本は0.4割支援にすぎない。普遍主義国家であるスウェーデンやデンマークは、パイを大きくして福祉国家的なトリクルダウン方式をとっていて、大きい政府が低所得層に分配をしている構造である。トルコやイタリアは、所得上位層に多く与えられるが、それは年金に該当する。しかし、所得上位も、下位も多くもらえないのが日本のパターンである。
その中で、2000年に介護保険制度が施行し、2006年には障害者総合支援制度、子ども子育て新制度が2012年つくられ、2015年から施行される。こうした高齢者、障がい者、子どもなどに対する福祉制度整備のことを、普遍主義的改革のように言われているが、日本における社会的起業の活躍の場を増やしていこうとする改革構想が背景にあった。
ところで、このような改革はどのような意味を持っているのだろうか。介護保険の実施にあたっては、消費税の引き上げがあった。財政的困難にもかかわらず、税金の引き上げには反対されるので、中間層を含めた有権者たちを納得させようとという理由で、普遍主義的改革を行なったのである。しかし、普遍主義的改革は多くの財政を必要すると同時にに、排除も生み出したのである。すなわち、現金給付など、自己負担の改革となっているのかで、そこに社会的企業も巻き込まれているのである。その結果、どのような政治的条件が形成されたのか。今の福祉制度が実際に困窮層の人たちや低所得層とは関係ない方向に行っているため、福祉に期待を寄せる力は決して大きくはならない。低所得者層が一番投票しているが自民党である。生活保護を圧縮しながら、かつ、社会保障のことについては多くは言及せずに、景気を良くしますというスローガンが一番彼ら/彼女らにとってフィットしているのである。
こうした構図の中にあるものの、どうして困窮は解決できないのであろうか。自治体の制度と未対応も絡んでいるが、まず、日本の社会保障、福祉制度を見ると、困難(障害や介護など)を分別し、類型化して、それを支援する政策をつくっていた。しかし、今日の困難はますます複合化している。自殺要因を分析したデータを見ると、自殺の危機経路には、類型化されない複合的な課題(鬱、生活苦、疾患など)が連鎖している。これを象徴的に見せるのが千葉県銚子市の母子世帯事件である。縦割り行政は多くの制度は持っていたものの、複合的困難に対して、どの部局も総合的に対応できなかった。「あいだ」や「すきま」の中に放り出される人たちが増加しているにも関わらず、多様な複合的ニーズに総合的な支援が行われていないことである。特に、雇用と福祉のことも同様で、福祉を必要としている人々の雇用、雇用されている人々への福祉のことも考える必要がある。
こうした状況を踏まえ、「共生保障」のビジョンは何なのか。今は、安定的な雇用を期待できなくなり、雇用が福祉を支えてくれない状況である。「参加と共生の場」をつくること、その「つくること」を支援することとして、共生保障を考える。その「真ん中」のゾーンをつくるのが社会的企業の役割にもなるだろう。今までは公的保障と人々の支えあいは、別の領域として扱われていた。しかし、社会的包摂とトランポリンがうまく機能していない状況の中で、社会的包摂のためのトランポリンをつくることが重要になってくる。
例えば、ユニバーサル就労が考えられる。日本の職場は基本的にメンバーシップ型、人中心の石垣型が一般的なことに対して、ユニバーサル就労は、ブロック型のジョブをつくることで、多様な人々が入ることができるし、既存の人々の負担も減らすことができる。千葉県生活クラブ「風の村」は、一般賃金職員、最低賃金職員、有償コミューター、無償コミュターなど、類型化されていて、多様な人々が自分の状況にそって働くことができる。ユニバーサル就労条例もつくられ、それが経済の活性化にもつながる。自治体はこうした状況から、ユニバーサル就労の価値に気づくことも必然的である。
一方、農業・自伐型林業の可能性も重要となってくる。大阪の社会的企業が弘前市と協定を結んで、地域に若者たちを受け入れている。弘前市は、2016年から就労自立支援室を新設し、ユニバーサル就労を目指している。誰でもできる仕事をパッケージ化して、支援型就労として用意しておくことである。つまり、中間ゾーンをつくること、共生の場をつくることである。
ただ、共生の場という時に、活動の場と居住の場を分離する必要があるが、地域型居住をつくっていくことがその間を埋められると思う。今の居住、住宅政策というのは、ケアの可能性が低く、低所得でケア可能性が高い人々は施設に行かざるを得ない状況であるが、それを埋めていくことが求められる。たとえば、現在、どの自治体でも空き家問題が深刻であるが、一方では、家に入れない人々が多くいる。雇用のことも同様である。中小企業は人手が足りない中で、働きたくても働けない人々が多くいる。そうした矛盾の解決に役に立つのが「地域型居住」である。例えば、NPO法人ふるさとの会では、高齢者や若者への生活支援を行いながら、オーナーさんを安心、納得させている。入居者同士の相互扶助を公助として支援し、最終的には自助を目指している社会的不動産として実現しているのである。
公的財源をベースとして支えていくような保障というのは、今までの縦割り行政では同時に解決できないが、これからはライフステージごとに支援するのが求められてくる。子ども-若者-中高齢男性-高齢者など、危機が集中する世代に生涯周期別支援が必要となり、それを補完するような所得保障(補完型所得保障)が重要となる。経済的保守は、支える側の活動条件を拡大することに重点をおき(トリクルダウン仮説)、社会的保守は、支える側と支えられる側の連帯強化、つまり、互助と共助を強調する。一方、リベラルの方は、支えられる側の権利擁護を公助に重点をおく。ところが、共生保障(再帰的リベラル)の場合は、「支え合い」を「支える」こと、すなわち、自助の互助・共助を公助の重要性を強調することである。
宮本先生のお話が終わって、7名からの質問と意見を頂き、大変熱く活発な質疑討論が続いた。質問と議論の中には、ベーシックワークのこと、厚労省の地域共生社会政策との具別化、保険政策の限界、今の予算配分の問題、社会的企業への規制問題、中間的労働市場の必要性、共生社会の本質、自治体の政策と住民自治と民主主義、現場における裁量権・自治権、当事者に寄り添う準市場、環境づくり・人づくり、担い手が主体的に考えて行動すること、協同労働の法制化など、かなり根本的で本質的な問題意識が鋭く提起された。宮本先生は、住民と行政間の不信、行政どうしの不信、行政と自治体間の不信関係が蔓延している現実を言及し、そこには、囚人のジレンマが存在することを指摘された。つまるところ、結局、自治の問題に帰結することを提起され、制度が分権的な方向に行って、不信を減らして信頼関係をつくっていくことが優先課題だと述べられた。そういう経験の蓄積が必要で、その楽しさが広がっていくことが重要であると強調された。
最後に、藤井会長から、結局、囚人のジレンマに集約するのではないかというコメントがあった。行政、民間の社会的企業、さらに、市民社会の中にも囚人のジレンマがあるのではないかと。貧困を抱えている人々の生活保護や福祉に対する認識、政治的性向など、そういう矛盾やジレンマをどのように考えるべきかにも関わることであると述べられた。政治的保守化の動向が広がる今の日本の課題をどのように解決していくのか、「共生の価値を可視化していく構造」をどのようにつくっていくのか、その中で市民教育の価値や課題など、今後の私たちの課題をクリアに提示されたと同時に宿題をたくさん与えられたような気がするとの発言で結ばれた。
今回の研究会に参加して、国家権力、格差、不平等、福祉、政治参加、自治、教育の問題をより総合的で綿密に捉え直す必要性を痛感した。宮本先生は、日本の厳しい現実を指摘してくださったが、新自由主義の政策を取り入れた多くの国々の構造的な問題と実相を本質的に見極めることが求められると思われる。初期の新自由主義が追求した「無干渉主義non-intervention」は1990年代にすでに廃棄され、新自由主義の危機が現れるたびに、より積極的政策を要求し、「強い行政」が登場してきたこと、つまり、国民国家の弱化というのは錯覚にすぎないというのは、10数年前から欧米の学者たちから一貫して提起されてきたことである。
新自由主義は不平等をより深化するが、それは自然な市場原理ではなく、政治によって形成され拡大される新たな段階の新自由主義である。もっとも深刻なのは、福祉国家の残余化によって政治過程への参加を怠惰にする政治的幻滅感がもたらされることである。政治的空虚が生み出す「社会的なことの解体」をどのように乗り越えて、「社会的なこと」をどのようにつくり直していくことが課題となっている。
今日、「共生保障―支えることを支える」が投げかけてくる意味は決して小さくない。それは、自治と市民的公共性の問題と直結されるからである。特に、共生保障が論じられる時に、内容とアプローチは異なるものの、批判的に捉えられるフレームは市民的公共性にも同じく適用されると見られる。公私協働を促す「市民的公共性」には新しい公共性を創出する積極的側面だけでなく、公共性を解体する「トロイの木馬」のような役割も果たしているという批判的な視点が存在する。しかし、市民的公共性の本来のあり方とその本質を考えるうえで、共生保障は重要なヒントとなり得ると思われる。市民的公共性をつくっていく「市民の力」というのは、自助・互助することだけでなく、公助に働きかけること、横に繋がる連帯など、多様なレイヤーから考えられる。そのことを地域で実現していく取り組みとしてコミュニティづくりと自治を考えていきたい。今回の研究会では、その地域コミュニティの中で、居住・就労・生活・子育て・介護について「共に生きることができる」構造を「共につくり出していく」ことが、より具体的なイメージとして描かれたきっかけとなった。宮本先生が言われたように、「地域には正解がない」ので、共に生きる地域をつくる裏技をローカルな知と一緒に楽しく身につけていくことで教育の役割も重要になってくるのではないかと思われる。最近出版された宮本先生の著書『共生社会』を丸ごと圧縮してお聞きできたラッキーで実り多い時間だった。貴重なお話を頂いた宮本先生にこの場を借りて感謝を申し上げたい。